能褒野神社(のぼのじんじゃ)は、日本武尊を主祭神とし、日本武尊の陵墓がある神社です。
日本武尊(ヤマトタケルノミコ)は、ヤマトタケルとも呼ばれます。
わたしが住んでいる鈴鹿市の隣町、亀山市にある神社で、一度は、見学、参拝したかった神社でした。
大きな駐車場も完備されています。
亀山市の能褒野は、日本武尊が死去した地と伝えられています。
能褒野周辺には前方後円墳がいくつかあり、その一つが日本武尊の墓であるとされています。
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宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。
墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。
参拝者や見学者はだれもおらず、ひっそりとしていた。
大きな神社に、わたし一人。気兼ねなくあちらこちら見学した。
境内の小さな脇道には、山神と水神が祀ってある。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
父は第12代景行天皇。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は大碓皇子のみで双子の兄とする。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓命(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする。
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日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。
形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。
出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。
古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。
倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。
山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。
神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。
居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。
ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。
時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
ヤマトタケルの記事はフリー百科事典を抜粋
能褒野神社の地図
日本武尊(ヤマトタケルノミコ)は、ヤマトタケルとも呼ばれます。
わたしが住んでいる鈴鹿市の隣町、亀山市にある神社で、一度は、見学、参拝したかった神社でした。
能褒野神社
建見児王および弟橘姫命を配祀大きな駐車場も完備されています。
亀山市の能褒野は、日本武尊が死去した地と伝えられています。
能褒野周辺には前方後円墳がいくつかあり、その一つが日本武尊の墓であるとされています。
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日本武尊の陵墓と能褒野王塚古墳について
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「能褒野王塚古墳」。
墳丘長90メートルの前方後円墳で、4世紀末の築造と推定される。
大きな神社に、わたし一人。気兼ねなくあちらこちら見学した。
能褒野神社の参道と境内
境内の小さな脇道には、山神と水神が祀ってある。
ヤマトタケル
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
父は第12代景行天皇。母は皇后の播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ、針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫)。『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女を若建吉備津日子(吉備臣らの祖)の娘とする。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』では第二皇子とし、同母兄は大碓皇子のみで双子の兄とする。『古事記』では第三皇子とし、同母兄を櫛角別王・大碓命(双子の記載はない)、同母弟を倭根子命・神櫛王とする。
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日本書紀
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。
形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ。」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。
出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。
古事記
素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、牛ほどの大きさの白い大猪が現れる。
倭建命は「この白い猪は神の使者だろう。今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」と言挙げをし、これを無視するが、実際は猪は神そのもので正身であった。神は大氷雨を降らし、命は失神する。
山を降りた倭建命は、居醒めの清水(山麓の関ケ原町また米原市とも)で正気をやや取り戻すが、病の身となっていた。
弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村(岐阜南部から三重北部)と進んで行く。地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情が描かれる。そして、能煩野(三重県亀山市)に到った倭建命は「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」から、「乙女の床のべに 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」に至る4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。
日本書紀
伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。
神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。
居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。
ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。
時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父の景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌とされ、倭建命の辞世とする古事記とほぼ同じ内容だが印象が異なる。
ヤマトタケルの記事はフリー百科事典を抜粋
能褒野神社の地図