三重県鈴鹿市にある椿大神社(猿田彦大本宮)に参拝しました。
8月終わりの参拝でしたが、森に囲まれている椿大神社周辺は、涼しかったです。(2012年夏)
主祭神である猿田彦大神は、「古事記」、「日本書紀」の天孫降臨にも登場する導きの神さまです。
椿大神社(猿田彦大本宮)の由来
椿大神社近くの大鳥居から約10分程度で椿大神社に到着に到着。
椿大神社近くの大鳥居は、東名阪道の鈴鹿インターを降りたところにあります。
何度もこの道を通るのですが、参拝できずじまい。夏休みの休暇を利用して数年ぶりに参拝しました。
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猿田彦大神は導きの神さまなので、良い方向へ導いて頂けるように一心に祈る。
森に囲まれ、木々の木漏れ日が気持ち良い。参道にある石灯篭や狛犬が苔むし、歴史の重みを感じる。
本殿への参道の横には猿田彦大神の妻神である天之鈿女命(アメノウズメ)を祀る鈿女本宮がある。
天之鈿女命は、芸能の神様。参道には芸能人の名前が書いてある奉納の赤い札が並んでいる。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。
『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。
そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。
邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売命に、その名を明らかにしたのだから、猿田毘古神を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。
そこで天宇受売命は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田毘古神は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。
この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。
『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。
大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
椿大神社(三重県鈴鹿市)の社伝によると伊勢の阿邪訶にて溺れた際に命を落とし、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これが猿田彦命の御陵とされている。
また、二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)の由緒書によれば同神社の境内の海中に位置する興玉神石は天孫降臨の際に猿田彦が降り立たれた神跡であると伝えられている。
サルタヒコの記事は下のフリー百科事典を抜粋。
椿大神社の地図
所在地:三重県鈴鹿市山本町1871
8月終わりの参拝でしたが、森に囲まれている椿大神社周辺は、涼しかったです。(2012年夏)
椿大神社 | つばきおおかみやしろ
椿大神社は、猿田彦大神を主祭神とし、猿田彦大神を祀る神社の総本社です。主祭神である猿田彦大神は、「古事記」、「日本書紀」の天孫降臨にも登場する導きの神さまです。
椿大神社(猿田彦大本宮)の由来
椿大神社近くの大鳥居から約10分程度で椿大神社に到着に到着。
椿大神社近くの大鳥居は、東名阪道の鈴鹿インターを降りたところにあります。
何度もこの道を通るのですが、参拝できずじまい。夏休みの休暇を利用して数年ぶりに参拝しました。
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椿大神社の参道と本殿、狛犬
椿大神社の本殿に参拝する。猿田彦大神は導きの神さまなので、良い方向へ導いて頂けるように一心に祈る。
森に囲まれ、木々の木漏れ日が気持ち良い。参道にある石灯篭や狛犬が苔むし、歴史の重みを感じる。
天之鈿女命を祀る鈿女本宮
本殿への参道の横には猿田彦大神の妻神である天之鈿女命(アメノウズメ)を祀る鈿女本宮がある。
天之鈿女命は、芸能の神様。参道には芸能人の名前が書いてある奉納の赤い札が並んでいる。
サルタヒコ
『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。
伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。
神話での記述
邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。
そこで天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田毘古神で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来た。
邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売命に、その名を明らかにしたのだから、猿田毘古神を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。
そこで天宇受売命は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田毘古神は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。
猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。
この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。
『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。
大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。
椿大神社(三重県鈴鹿市)の社伝によると伊勢の阿邪訶にて溺れた際に命を落とし、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これが猿田彦命の御陵とされている。
また、二見興玉神社(三重県伊勢市二見町)の由緒書によれば同神社の境内の海中に位置する興玉神石は天孫降臨の際に猿田彦が降り立たれた神跡であると伝えられている。
サルタヒコの記事は下のフリー百科事典を抜粋。
椿大神社の地図
所在地:三重県鈴鹿市山本町1871